不定期読書記録

ただひたすらに本の話を

それからはスープのことばかり考えて暮らした

一番好きな本は?という問いを立てた時答えるのはかなり難しい。

何度読んでも最後には涙が出るような小説も「好き」かもしれないし、重厚な古典文学も「好き」かもしれない、文章がサラサラと流れるように美しいエッセイも「好き」かもしれないし、可愛らしい物語も「好き」かも。 

「それからはスープのことばかり考えて暮らした」のことは、読み終えたその日からとても好きで、この好きはどんなカテゴリーの好きか考えてみると、幸福になれる物語だから好きなのだと思う。

 

路面電車の走る町「月舟町」に引っ越して来た主人公は失業中。住むことになったところの大家さんは「昔のフランス映画に出てくる中庭と屋根裏のついた古アパートのマダムみたいで気取りがなく、ちょっと豪快なところもある」楽しい人。

主人公には、歩いて行ける距離なところに位置する「月舟シネマ」で映画を見る、という趣味があって、失業中なのに週に一回はそこに通うわけだ。彼は新作や、名作をみるためにそこへ行くのではなく、好きな女優が出ている作品を繰り返しみるために月舟シネマに出かけてゆく。主演作品が一本もない女優だけれど、出演したものはどんなものでも観に行く。

そんな主人公はある日、マダムから教えてもらった「トロワ」というサンドイッチ屋さんに行く。三度目の正直(二回仕事を失敗しているから)という祈りを込めて「トロワ」と名付けられたその店のサンドイッチはとても美味しく、それ以来彼は毎日その店を訪れる。

トロワを経営しているのは安藤さん、という男性で、リツくんという小学生の男の子がいる。主人公とリツくんとの掛け合いも

見ものだ。

やがて主人公はトロワで働くこととなり、あることがきっかけで売り上げが落ち込んだ状況を打開するためにスープのレシピを考えてゆくことになる。そして映画館でいつもであう初老の女性ともあるきっかけで会話を交わし、事態はちょっと意外な方向へと進んでゆく…

派手さがある物語とはまるで違う。大きなドラマがあって、主人公たちが協力してそれを解決していくような物語では決してなく、基本的には個性豊かで愛すべきキャラクターたちの穏やかに進んでゆく日常を描いている静かで品のある物語だ。読み進めるに従ってじわり、ジワリとこころがあたたまっていくこと間違いなし、という感じ。

飄々としているマダムがたまに漏らす言葉の深み、母親を早くに亡くしたリツくんから垣間見える孤独、主人公の部屋の窓から見える教会に祈りにやってくるトロワの安藤さん、初老の女性の正体…主人公よりもはるかに長く、豊かな人生経験を持った人たちがゆっくりと優しく彼を導いてゆくわけで、読んでいて本当に心地が良くて幸福で軽快な気持ちになってゆく。

路面電車の走る町、サンドイッチ屋さん、小さな映画館、一番最初に来たお客さんを「一番星」と呼ぶラーメン屋さんなどなど、町の情景もかなりいいと思いませんか?私は思う。

作者の(元々は装丁家の)吉田篤弘さんは、今作を月舟三部作の二作目、としている。あと二作も読んで、すっかり私はこの人のファンになってしまった。

「好きな本は」と尋ねられたらまず真っ先にこの本を思い浮かべるのは、「好き」と「幸福」がまずは一緒に想起されるからかもしれない。